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大阪高等裁判所 昭和35年(ネ)122号 判決

控訴人 亡吉田小市遺言執行者 吉田鉄次郎

被控訴人 吉田歌子 外一名

主文

原判決を取り消す。

被控訴人吉田信雄は控訴人に対し、被控訴人吉田歌子を登記義務者、被控訴人吉田信雄を登記権利者として大阪府南河内郡美陵町岡一一七一番、家屋番号南岡第一八九番、木造瓦葺二階建居宅建坪一五坪七合五勺二階坪九坪五合につき、大阪法務局古市出張所昭和三一年一一月二六日受付第三五三八号をもつてなした同年同月同日の贈与を原因とする所有権移転登記の抹消登記手続をせよ。

被控訴人吉田歌子に対する訴を却下する。

訴訟費用は第一、二審とも控訴人と被控訴人吉田信雄との間においては被控訴人吉田信雄の負担とし、控訴人と被控訴人吉田歌子との間においては控訴人の負担とする。

事実

控訴人は「原判決を取り消す。第一次的請求として主文第二項同旨及び被控訴人吉田歌子は大阪府南河内郡美陵町岡一一七一番地青谷ケイを登記権利者として大阪府南河内郡美陵町岡一一七一番地、家屋番号南岡第一八九番、木造瓦葺二階建居宅建坪一五坪七合五勺、二階坪九坪五合につき亡吉田小市の昭和一二年二月二〇日付遺言による遺贈を原因とする所有権移転登記手続をせよ。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人等の負担とする。との判決、予備的請求として、被控訴人吉田歌子は控訴人に対し金七二万三、〇〇〇円並びにこれに対する昭和三五年四月二一日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人吉田歌子の負担とする。」との判決並びに予備的請求について担保を条件とする仮執行の宣言を求め、

被控訴人等は「本件控訴を棄却する。控訴人の予備的請求を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

控訴人は昭和三五年四月二〇日の当審第一回口頭弁論において被控訴人吉田歌子に対する従前の請求の中同人名義の前記家屋の保存登記の抹消登記請求を取り下げると述べその後三月内に被控訴人等は異議を述べなかつたから右請求は適法に取り下げられたものと認められる。また控訴人の上記予備的請求は当審において訴を変更してこれを追加したものである。

当事者双方の主張証拠の提出援用認否は、

控訴人において、

亡吉田小市の遺言執行者として昭和三一年一一月二六日大阪家庭裁判所堺支部により選任せられて就職した吉田安太郎は同裁判所の許可を得て昭和三六年七月一〇日辞任し、大阪市東区横堀二丁目三番地吉田鉄次郎が同日同裁判所により右遺言執行者に選任せられて就職した。

原判決はその理由において被控訴人吉田信雄が亡吉田小市の相続人である被控訴人吉田歌子から大阪府南河内郡美陵町岡一一七一番、家屋番号南岡第一八九番、木造瓦葺二階建居宅建坪一五坪七合五勺、二階坪九坪五合(以下本件家屋と略称する)の所有権を譲り受け所有権移転登記を経由している以上控訴人は被控訴人吉田信雄に対し青谷ケイの本件家屋所有権を対抗することを得ない旨判示しているけれども、被控訴人吉田歌子はかねてから本件家屋は青谷ケイが亡吉田小市から遺贈を受けたものであつて吉田歌子としてはやがていずれは青谷ケイに対して右家屋の所有権移転登記をしなければならない関係にあることを熟知していたところ昭和三一年一一月一二日前記の裁判所から遺言書検認期日の呼出状の送達を受けたので俄かに悪心を起こし本件家屋の所有名義が登記簿上青谷ケイに移転せられるのを妨げる方法として同月二六日被控訴人吉田信雄を登記権利者として贈与を原因とする所有権移転登記をしたのである。しかしながら被控訴人両名間の本件家屋の贈与契約は後記のように右両名が通謀してなした虚偽の意思表示に基くものであつて無効であり、被控訴人等は民法第一七七条にいわゆる第三者に該当せず控訴人は遺贈に因る青谷ケイの本件家屋所有権取得をその旨の登記なくして被控訴人等に対抗し得るものである。そして被控訴人両名の間になされた本件家屋の贈与契約が通謀虚偽表示であることは次のような事実に徴して明かに認められる。すなわち被控訴人等は同居の夫婦であるからその間にたとえ真実に贈与が行われた場合においても第三者に対する場合と異なり出費の節約を図るところから登記手続は不急のこととして後日に延期してこれに要すべき多額の登録税や不動産取得税等の出費を避けんとするのが人情の自然であるに拘らず贈与契約に引きつづいて直ちに被控訴人両名間において本件家屋の所有権移転登記手続をしたのであり、吉田安太郎が昭和三一年一一月二六日前記裁判所により遺言者亡吉田小市の遺言執行者に選任せられて就職し即日青谷ケイと共に大阪法務局古市出張所に行き本件家屋の所有権取得の登記申請をしようとした際にはすでに被控訴人等の方で当日わずかに青谷ケイに先んじて贈与に基く所有権移転登記をしたのであつて、以上の経緯を考えれば被控訴人等が通謀して青谷ケイに本件家屋所有権の移転登記のなされることを妨害しようとして右登記手続をした作為の痕は歴然たるものがある。

若し被控訴人等の間の本件家屋の贈与契約が通謀虚偽表示によるものでなく有効であつて控訴人の第一次的請求が理由のないものとせられる場合は予備的請求原因として、被控訴人吉田歌子は亡吉田小市からの遺贈によりその所有権を取得した青谷ケイに対し本件家屋の所有権移転登記をしかつ本件家屋を青谷ケイに引渡すべき義務があり、これを知つていたに拘らず故らに夫たる被控訴人吉田信雄にこれを贈与して所有権移転登記をも経由し因つて青谷ケイをして本件家屋の所有権を喪失せしめた不法行為に因り本件家屋の価格相当の損害を蒙らしめたものであるからその賠償の義務があるところ、右家屋の価格は右不法行為のなされた昭和三一年一一月二六日当時においては金五九万三、五〇〇円であつたがその後昂騰して昭和三五年四月一四日当時においては金七二万三、〇〇〇円を相当とするのであつて青谷ケイの前記損害額は現在の価格に従つて算定するのが相当であるから被控訴人吉田歌子に対し損害賠償として金七二万三、〇〇〇円並びにこれに対する控訴人が右被控訴人に対し第二審第一回口頭弁論において右損害賠償の請求をした日の翌日である昭和三五年四月二一日以降右完済まで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。と述べ、〈証拠省略〉

被控訴人等において、

控訴人主張の日に吉田鉄次郎が亡吉田小市の遺言執行者に選任せられて就職したことは認める。

被控訴人等の間の本件家屋の贈与が通謀虚偽表示によるものであることは否認する。被控訴人吉田歌子は本件家屋が亡吉田小市の遺言によつて青谷ケイに遺贈せられたとの事実は知らない。被控訴人吉田信雄は婿養子であるが妻歌子との間に、養家の財産の中不動産のいずれかを同人の所有名義にすること以外には夫婦仲の円満を維持する方法はないと考えられるような事情があつたため吉田信雄名義に本件家屋の所有権移転登記をしたものであつて前記遺贈の事実を知りながら大阪家庭裁判所堺支部から遺言書検認につき期日の呼出を受けて俄かに悪心を起して故らに右登記手続をしたわけではない。被控訴人吉田歌子は現在に至るまでの過去一〇数年間に実母吉田きく江、祖母亡吉田リウ、叔母吉田キクヱ若しくは叔母青谷ケイ等から亡吉田小市の遺言に関しては何一つとして聞知したことはなかつたところ思いがけず前記裁判所から亡吉田小市の遺言書検認につき期日の呼出を受けたので右遺言書の件は青谷ケイとその周囲の近親者等のためにする策謀によることを察知し呼出期日に出頭して従前の事情経緯を明かにしようと準備していたところ当日たまたま止むを得ない故障が突発したため同裁判所に出頭することができなくなつたので被控訴人等は事情を具して次回期日には必ず出頭すべき旨書面をもつて同裁判所に上申したのであるがやがて同裁判所から前記遺言書検認を了した旨の通知を受けたので被控訴人等の意見を聞くことなくして検認手続を終了したことを不服として早速同裁判所に赴いて事情を質したけれども検認は前記遺言書の真否若しくは効力を確定するものでない旨の説明によりそれ以上の手続に及ばなかつたのである。

控訴人の本訴請求は民法第一条第二、三項に反する権利主張というべきものである。すなわち本件の遺言書の作成者たる亡吉田小市が昭和一三年三月七日死亡した当時既に青谷ケイは右遺言書を所持するに至つたのであるが同人は遺言書を後日に効力あらしめるために昭和一一年八月一〇日付の郵便局の消印のある小市作成の葉書を秘かに保存し将来遺言書検認の申立をする際に申立書の添付書類としてこれを利用しようと計画していたのである。そして小市の死後その法要が営まれた機会等数回に親族が集会したにも拘らず遺言書に関しては一切黙秘してこれを公表せず、青谷ケイの実母吉田リウが昭和三〇年一月二四日死亡した後の同年三月中旬に至つて始めて本件遺言書をその名宛人である吉田きくゑに発表して遺言の執行として本件家屋の贈与を求めたのであつて、このように本件遺言書を所持しながら故らに昭和一三年三月七日以来一九年間も秘匿して公表せず、その間吉田きくゑにおいては亡夫吉田信蔵の死後(昭和四年五月五日に死亡した)子供二人と舅姑(吉田小市、リウ夫婦)等の家族を抱え女手一つをもつて苦しい生活を続けながらも本件家屋を亡夫の遺産と考え処分もしないで維持して来た苦労を顧みず昭和三〇年三月中旬に至つて始めて遺言書を公表して吉田きくゑに対し右遺言の効力を主張することは明かに権利の濫用であり、権利行使の原則たる信義則に違背するものであつて許るされないところである。

なお本件家屋の価格を金七二万三、〇〇〇円と評価するのは高きに失し不当である。

以上の次第であるから控訴人の第一次的並びに予備的請求はいずれも理由がないことが明かである。

原判決三枚目裏三行目に「昭和三一年一〇月二〇日」とあるのを「昭和三一年一一月二六日」と、同一〇行目に「吉田きくゑ」とあるのを「吉田きく江」と各訂正した。〈証拠省略〉

外原判決事実記載と同一であるからこれを引用する。

理由

成立に争がない甲第一、第三号証、甲第二号証の成立に争がない部分と原審における証人青谷ケイ及び吉田キクヱの各証言、原審における遺言執行者吉田安太郎本人尋問の結果によつて成立の認められる甲第二号証のその他の部分並びに原審における証人青谷ケイ及び吉田キクヱの各証言、原審における遺言執行者吉田安太郎本人尋問の結果、当審におけ証人青谷喜三郎及び青谷ケイの各証言(但し当審における証人青谷ケイの証言中後記の措信しない部分を除く)を総合すれば、本件家屋は吉田小市が昭和一〇年の前後二、三年の間に建築してこれを所有していたものである。元来同人が右家屋を建築しようと思い立つたのは二女ケイが昭和二年頃青谷喜三郎に嫁したのであるが結婚後数年にして喜三郎がその稼業であつた呉服行商に失敗しその上昭和七、八年頃には眼を患つて失明し爾来喜三郎が按摩をして得る収入で生計をたてる有様でこのような不幸つづきで兎角生活に困窮し勝ちなのを見て不憫に思い将来ケイに右家屋を贈与してその財産として保有せしめることを目的としたものであつた。もつとも家ができ上つた当時にはたまたまケイの実姉で既に吉田伊三郎に嫁していた長女キクヱ夫婦を伊三郎の両親と別居させて家庭の円満をはかる必要があつたのとケイ夫婦が現在の大阪府河内市瓢箪山に一戸を構え喜三郎が按摩業をして一応生計を立てており直ちに本件家屋に移転することは却つて不便が多かつた等の事情から小市のはからいでキクヱ夫婦が新築の本件家屋に居住し、かたがたケイのために家屋の管理をすることになりキクヱ夫婦が入居したのである。そして小市はかねての意向に従い自筆でその全文、日付及びその氏名を書き押印した昭和一二年二月二〇日付の書面によつて「吉田伊三郎が現に居住している家屋を青谷ケイに贈与する」旨の意思表示を内容とする遺言をし、右遺言書を長女の吉田キクヱに託して後事を依頼し、やがて昭和一三年三月七日死亡した。

以上の事実が認められる。原審及び当審における証人吉田きく江の証言、当審における被控訴人両名の各本人尋問の結果中、同人等は小市存命中はもとより、昭和三〇年一月二五日に死去した小市の妻(吉田キクヱ及び青谷ケイの実母、吉田きく江の姑)吉田リウの生前においても小市の本件家屋に関する前記遺言書の記載内容同旨の意思を小市本人若くはその他の近親者から聞いたことがなく、前記遺言書の存在及び記載内容につき聞知したこともなかつた旨の証言及び供述も弁論の全趣旨に照らし到底信用することができず、その他前記認定を覆えすに足りる証拠はない。もつとも前記甲第二号証によれば前記遺言書にはその宛名として「きく江」と記載せられていることが認められるけれども、原審における証人吉田キクヱ、吉田きく江の各証言及び辞任前の遺言執行者吉田安太郎本人尋問の結果(証人吉田きく江の証言中前記信用しない部分を除く)によれば、前認定により明かなように吉田小市の長女が「キクヱ」と名付けられていたので近親間の日常生活上の混乱、不便を避けるために小市の長男信蔵の嫁のきく江は結婚以来小市を始めその家族及び近親者の間ではもつぱら「おきみ」若くは「きみ」と呼ばれ同人に対して「キ・ク・ヱ」の呼称は全く使用されなかつたことが認められるから小市がその作成にあたり遺言書の名宛人としたのはその長女吉田キクヱであつて、長男の嫁の吉田きく江ではなかつたものと認めるに足りる。当審における証人青谷ケイの証言中右遺言書の名宛人が青谷ケイの嫂の吉田きく江である旨の証言はにわかに信用することができない。そうすると本件家屋は吉田小市死亡当時においてその相続財産に属し、同人の死亡に因り前記認定の遺言の効力に基きその死亡の日の昭和一三年三月七日青谷ケイにおいてその所有権を取得したものといわなければならない。なお登記簿上大阪府南河内郡藤井寺町大字岡一一七一番地上家屋番号南岡第一八九番、木造瓦葺二階建居宅建坪一五坪七合五勺、二階坪九坪五合と表示せられている建物が現在は大阪府南河内郡美陵町岡一一七一番地上に所在するものとされている本件係争家屋と同一の建物であることは弁論の全趣旨により明かに認め得るところである。

前記甲第一号証、成立に争がない甲第四号証の一、二と原審及び当審における証人吉田きく江の証言(前記信用しない部分を除く)、原審及び当審における証人青谷ケイの証言(当審の証言中前記信用しない部分を除く)、原審における証人吉田キクヱの証言を総合すれば、戸主吉田小市が昭和一三年三月七日死亡しかつ長男信蔵が既にそれ以前に死亡していたために小市の孫で亡信蔵の長女である被控訴人吉田歌子が亡父に代襲して家督相続したことが認められ、また被控訴人吉田歌子が昭和三〇年六月二九日、当時なお未登記建物であつた本件家屋につき大阪法務局古市出張所昭和三〇年六月二九日受付第一八三八号を以つて同被控訴人名義の所有権保存登記を経由したことは当事者間に争がないけれども、本件家屋の所有権は前示のように被相続人吉田小市の遺言に因り相続開始とともに青谷ケイにおいてこれを承継取得したものであつて被控訴人吉田歌子は右家督相続に因り遺言者吉田小市の法律上の地位を包括的に承継したものであるから青谷ケイは被控訴人吉田歌子に対してはもとより登記なくして前示遺贈による本件家屋の所有権取得を対抗しうべきものである。被控訴人等は被控訴人吉田歌子が吉田小市の死亡の直後たる昭和一三年三月一〇日頃以来本件家屋を平穏公然善意無過失に継続して占有したので一〇年の経過によりその所有権を時効取得したと主張するけれども、被控訴人等がその主張の期間本件家屋を自ら直接占有した事実を認めるに足りる何等の証拠はなく、却つて原審における証人青谷ケイ、吉田キクヱ、吉田きく江の各証言(吉田きく江の前記措信しない証言の部分を除く)、当審における証人吉田きく江、青谷ケイの各証言(いずれも前記措信しない部分を除く)及び被控訴人吉田歌子本人尋問の結果を総合し併わせて本件家屋建築当初における前記認定のような事実の経過に照らせば、本件家屋にはその新築竣工以後引続き吉田キクヱがその夫伊三郎と同居し若くは夫とは別居して居住し、昭和二一年四月頃から昭和二八年二月頃までは前記吉田リウが右キクヱと本件家屋に同居し、その間リウ若くはキクヱにおいて貸主となつて本件家屋の一部を二世帯の他人に各賃貸しその賃料はりうが収取してその全額を同人の本件家屋における生活の資に充てていたこと、昭和二八年二月頃りうが吉田きく江方に引き取られ以後は吉田キクヱが従前どおり本件家屋に居住し且つ賃貸借を継続してきたことが認められ、しかも右キクヱ若しくはリウ等が被控訴人等の代理人として本件家屋を占有したものと認めるべき証拠はなく、また前記賃貸借が被控訴人等を賃貸人として締結されたものでないことは右認定のとおりであるから被控訴人等において賃借人による本件家屋の間接占有を取得したものとも認めるわけにゆかない。したがつて被控訴人等の時効の主張は採用することができない。

次に被控訴人吉田歌子が被控訴人吉田信雄を登記権利者として昭和三一年一一月二六日大阪法務局古市出張所受付第三五三八号をもつて右同日付の贈与を原因として本件家屋の所有権移転登記をしたことは当事者間に争がなく、成立に争がない甲第四号証の一、二並びに当審における証人吉田きく江の証言の一部と当審における被控訴人両名各本人尋問の結果を総合すれば、本件家屋につき昭和三〇年四月頃以降、前記のように登記簿上登記原因たる贈与成立の日として記載せられている昭和三一年一一月二六日に至る前までの間において被控訴人吉田歌子より被控訴人吉田信雄に対して本件家屋を贈与する旨の黙示の契約が右両名間に成立していたものと推認することができ(もつとも右契約が締結せられた具体的年月日はこれを確定するに足りる証拠はない)、右認定を覆えすべき証拠はない。

そうすると当審における証人吉田きく江の前記証言及び被控訴人両名本人尋問の結果によるも昭和三一年一一月二六日当日には被控訴人両名間に本件家屋を目的とする贈与契約が締結された事実のなかつたことが窺はれ他に右事実の認め得られる証拠はないけれども、いやしくも右同日以前に締結されたものと認め得られる前記贈与契約にして法律上有効なる場合においては、前記贈与を原因として被控訴人吉田信雄のために経由せられた本件家屋の所有権移転登記はなお有効であつて、真実に締結された贈与契約に因り被控訴人吉田信雄が被控訴人吉田歌子から実体上承継取得したるべき本件家屋所有権の対抗要件として欠けるところはないものといわなければならない。しかしながら前記甲第一、二号証と当審における証人青谷ケイ及び青谷喜三郎の前記各証言によれば、青谷ケイは実母吉田リウが死亡してから約二箇月から四箇月位を経た後である昭和三〇年四月頃から六月頃までの間に自ら直接被控訴人等の母吉田きく江に面接して前記遺言書の存することを告げ、更に知人神谷某に右遺言書を託し同人を介して右吉田きく江に遺言書を提示して本件家屋の登記名義を青谷ケイに移転するよう交渉させたこと、吉田きく江は青谷ケイから遺言書に基き右のような申出を受けた後に被控訴人吉田歌子と諮つて本件家屋につき歌子名義の前記保存登記手続を経たことが認められ、当審における証人吉田きく江の証言及び当審における被控訴人吉田歌子の本人尋問の結果の中吉田きく江及び吉田歌子等が青谷ケイから神谷某を介し前記遺言書を提示して登記名義移転の申出を受けたのは本件家屋の前記保存登記を経た以後のことであるとの証言及び本人尋問の結果は弁論の全趣旨に照らして信用できない。そして当審における証人吉田きく江の証言の一部と被控訴人両名各本人尋問の結果の一部によれば、被控訴人吉田歌子、同信雄夫婦は結婚以来昭和三一年秋頃信雄の転任により和歌山県湯浅町に転居するまでは歌子の生家で母吉田きく江と同居していたことが認められる。また前記甲第一乃至第三及び第五号証、成立に争のない甲第八乃至第一〇号証によれば、青谷ケイの申立により大阪家庭裁判所堺支部が同裁判所昭和三一年(家)第六八二号事件につき昭和三一年一一月一二日前記遺言書の検認手続をしたこと、右遺言書検認手続につき前記裁判所が被控訴人吉田歌子に対し昭和三一年一一月一二日の検認期日の呼出をなし、呼出状が期日前に到達したこと、右検認終了後同人宛同裁判所が同月一四日付書面をもつて前記遺言書検認の通知を発したこと、右通知は遅くとも同月二五日よりも前に被控訴人方に到達したこと、青谷ケイの申立に基き同裁判所が同年(家)第七〇六号事件につき同年一一月二六日審判をもつて右遺言につき遺言執行者として大阪府南河内郡藤井寺町大字岡一一七一番地吉田安太郎を選任し同人が就職したこと、それと同じ日に被控訴人吉田歌子の名義をもつて同裁判所に対し前記遺言書検認事件の記録閲覧謄写願が提出せられたことが認められるところ、原審における証人吉田安太郎及び青谷ケイの各証言、当審における証人青谷ケイの証言(前記信用しない部分を除く)、当審における証人吉田きく江の証言及び被控訴人両名の各本人尋問の結果の一部を綜合すれば、被控訴人等とその母きく江は被控訴人吉田歌子に対する前記遺言書検認期日の呼出に接して青谷ケイが遺言書検認の申立をしたことを知り、本件家屋の帰属につき右遺言の及ぼすことあるべき効果に重大な関心を抱き、右検認期日には出頭しなかつたけれども機会を得て同裁判所に対し右遺言書出現の経緯や遺言の効力に関し事情を申し述べて被控訴人側の立場を明らかにしたいと考えていたやさき前記のように遺言書検認終了の通知を受けたので吉田きく江は急いで同裁判所に赴き係官に対し被控訴人吉田歌子の出頭関与のないままに検認手続をしたことにつき納得できない旨申入れたが右手続が遺言書の真否若くは当該遺言の効力を確定するものでない旨の説明を受けたので一応引き退つたこと、同月二六日午前中に被控訴人吉田信雄が大阪法務局古市出張所に出頭して本件家屋につき同人名義の前記所有権移転登記の申請手続をしたことが認められる。

そして以上認定の事実及びその経過と弁論の全趣旨を綜合考察すれば、前記のように母吉田リウの歿後亡小市の遺言書に基き受贈者たる青谷ケイがいよいよ公然と本件家屋に対する権利を主張するようになり、被控訴人等夫婦及びその母きく江等としては被控訴人吉田歌子が家督相続によつて相続財産の一として亡小市からその所有権を承継したものと考えてきた本件家屋の帰属に重大な変更が招来されるに至るべきことがきわめて具体的に予測せられるようになつたために、右遺言の実行として青谷ケイが完全に本件家屋の所有権を取得するのを防止し、実質上引続き被控訴人吉田歌子の所有財産として保持する方法として母きく江の唱導により、もとより被控訴人歌子においては真実本件家屋を夫信雄に贈与し、その所有権を信雄に帰属せしめようとの意思があつたわけでなく、被控訴人吉田信雄においても亦従前妻の所有してきた本件家屋の所有権を妻から移転を受け、従前と異なり爾後自分がその所有権者とならうとの意思を有したものでもなかつたが歌子に保存登記名義を存したままで放置しておけばやがて裁判上の手続によつて本件家屋所有権は名実共に青谷ケイに帰属せしめられる具体的状況となつたため差し当つての対策として先ず登記名義の移転を急ぎもつぱら移転登記手続履践の必要を充たすために被控訴人等は通謀して前認定の贈与契約を締結しこれを原因として被控訴人吉田信雄に対する前記登記名義移転の手続を了したものであることが推認せられ、当審における証人吉田きく江の証言並びに被控訴人両各本人尋問の結果の中、被控訴人両名の間に真実本件家屋の贈与契約が締結された趣旨の証言及び供述は弁論の全趣旨に照らして到底信用することができず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。そうすると被控訴人吉田歌子と同吉田信雄との間において締結されたことの認められる前記贈与契約は無効であつて被控訴人吉田信雄は実体上右贈与により被控訴人吉田歌子から本件家屋の所有権を承継取得し得べき限りでないから、たとえ前記のように被控訴人吉田歌子より被控訴人吉田信雄を登記権利者として本件家屋の所有権移転登記を経由するも実体的権利を伴はず、登記名義人たる被控訴人吉田信雄は未だ本件家屋につき法律上正当な利益を有する第三者に該当しないものであることが明らかであつて、青谷ケイは前示遺贈による所有権取得をその登記なくして被控訴人吉田信雄に対抗し得べきものであり、被控訴人吉田信雄は青谷ケイが右遺贈に因る本件家屋の所有権取得につき登記を経由せず却つて自分がその登記簿上所有名義を有することを理由として本件家屋に対する青谷ケイの所有権を否認することを得ないものといわなければならない。

被控訴人等は前記遺言書に基き被控訴人等に対し遺贈義務の履行の請求をするのは信義則に反し権利の濫用に亘る行為であると主張する。しかしながら原審における証人青谷ケイ、吉田キクヱ及び青谷喜三郎の各証言当審における証人青谷ケイの証言(前記の措信しない部分を除く)によれば、亡吉田小市から前記遺言書を託されたその長女吉田キクヱは小市の死亡直後青谷ケイに右遺言書を手交したので青谷ケイは当時右遺言の趣旨に従い本件家屋の登記名義の移転を受けたいとの意向を母リウに申し出たところ、リウは当時青谷夫婦が前認定のように貧困で窮迫した生活をしていた際であつたので若し取り急いで本件家屋の所有名義を青谷ケイに移転するときは窮余右家屋を売却して代金を生計に費消し去るかもはかられず、そうなつては本件家屋を所有財産として永くケイに保有させようとした亡父の折角の意思も水泡に帰することになるのを案じて、ケイに対しリウの存命中は引きつづき姉娘のキクヱと共に本件家屋に居住してこれを管理することとし、将来母も死去するに至つたならその時始めて前記遺言書に基きケイの所有名義に移転するよう言いきかせ、ケイも母の言葉に従つてリウの死後まで遺言の効力の主張を差控えていたものであることを認めることができるのであつて、右認定に反しケイが小市の死亡以来約一九年間故らに被控訴人等に対して右遺言書の存在を秘し公表を避けていたとの被控訴人等主張事実はこれを認めるに足りる何等の証拠資料がないのみでなく、原審における証人青谷ケイ、吉田キクヱの各証言並びに当審における証人青谷喜三郎、及び青谷ケイの各証言と弁論の全趣旨を総合すれば、むしろ小市の歿後リウがなお存命中の時期に既に吉田きく江は右遺言書の存在を察知していたことが推認されるところであり、また本件家屋が建築せられた当時から引きつづき、若しくはそれ以後の時期から、事実上これに居住し且つその一部を他人に賃貸借する等して管理に当つてきたのは前認定のように吉田伊三郎、吉田キクヱ若くは吉田リウであつて、被控訴人等主張のように必ずしも被控訴人等とその母きく江一家の者だけがもつぱらその負担と犠牲において本件家屋を維持管理したものではないと認められるのであるから前記遺言に基き遺贈義務の履行を求めることをもつて信義に反し権利の濫用行為と解すべき理由はなく、被控訴人等の右抗弁は採用できない。

そして前記吉田安太郎の辞任に伴い昭和三六年七月一〇日同裁判所が大阪市東区横堀二丁目三番地吉田鉄次郎を右遺言執行者に選任し同人が遺言執行者に就職したことは当事者間に争がなく、本件家屋につき青谷ケイが実体上取得した所有権に照応して登記簿上の所有名義を同人に取得せしめるのに法律上必要とせられる要件を実現することが前記遺言の執行行為として右遺言執行者の正になすべきところであること前示遺言の本旨に照らして明かであるから、本訴第一次の請求中被控訴人吉田信雄に対し同人名義の前記本件家屋についての所有権移転登記の抹消登記手続を求める請求は理由があり正当として認容すべきものであつて、被控訴人吉田信雄との関係において右と趣旨を異にする原判決は失当で本件控訴は理由があるから原判決を取り消すこととする。

しかしながら遺言者亡小市の家督相続人たる被控訴人吉田歌子に対して遺贈の目的でありかつ被相続人小市の相続財産に属する本件家屋につき受贈者たる青谷ケイに登記名義を移転すべきことを請求するのは遺贈義務の履行を求めるに外ならないものであり、遺贈義務の履行は遺言執行者の選任せられている場合は受贈者より遺言執行者に対して訴求すべきものであつて、この訴につき被告適格を有するのは当該遺言執行者に限られるものと解せられ、また右訴につき遺言執行者が原告適格を有しないことは民法第一〇一五条に考えても明かである。そうだとすれば遺言執行者たる資格に基き職務上の当事者として控訴人が前記遺言に基き相続人たる被控訴人吉田歌子に対し受贈者たる青谷ケイに遺贈の目的とせられた本件家屋の所有権移転登記手続をすべきことを求める第一次請求並びに右登記手続不能の場合に損害賠償をなすべきことを求める予備的請求については控訴人においても被控訴人吉田歌子においてもともに当事者適格を有しないものと認められ、被控訴人吉田歌子に対する本訴は不適法として却下すべきものであるからこれと趣旨を異にする原判決は右被控訴人との間においてもこれを取り消し被控訴人吉田歌子に対する本訴を却下することとする。

そこで訴訟費用の負担につき民訴法第八九条を適用し主文のとおり判決する。

(裁判官 山崎寅之助 山内敏彦 日野達蔵)

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